辻井伸行は20歳の時に参加した2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで中国出身のチャン・ハオチェンと共に金メダルを獲得し、センセーションを巻き起こした。本作はすでに多くの音源を発表してきた彼が初めてドイツ・グラモフォンからリリースしたアルバムのデラックス版で、追加トラックを新たに収録している。メインとなる収録曲は、ヴァン・クライバーンでも演奏し、辻井を優勝へと導くことになったベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」』。一流のピアニストでさえ恐れをなすほどの高度なテクニックを要求するこの強大な作品を書いた時、ベートーヴェンの耳はほとんど聞こえなくなっていた。 アルバムは、ベートーヴェンによる6曲から成る連作歌曲集『遥かな恋人に』をリストがソロピアノのために編曲した作品で幕を開ける。この作品はリストによる数あるトランスクリプションの中でも、最も穏やかで叙情的なものの一つであり、辻井が「壮大な旅」と呼ぶ『ピアノ・ソナタ第29番』に入る前に、彼の演奏の詩的な側面を紹介する役割を果たしている。「オーディエンスにこのとても瞑想的で内向的な作品に気付いてほしいと考えました」と辻井はApple Music Classicalに語る。「この曲をもっと知ってもらいたいのです。この編曲版で演奏されることはまれですが、素晴らしい楽曲であり、素晴らしい編曲です」 『遥かな恋人に』の終曲から『ハンマークラヴィーア』の爆発的な始まりへと、辻井は瞬時に移動する。その効果は絶大で、比較的落ち着いた状態にあったリスナーの感情は、ソナタのオープニングを飾る強大で華々しく飛躍する和音によって、混乱の渦の中へと一気に巻き込まれる。そして辻井は、確信に満ちたリズムとテクニックで一つ一つのフレーズや音楽的なアイデアを美しく語り、精巧に表現していく。第2楽章「スケルツォ」は奇抜ともいうべきリズムで構成されている楽曲だが、辻井はこれを自然な優美さと共に奏でている。一方で長大な「アダージョ」での彼は、胸が張り裂けそうな悲しみと強い感情を表現しながらも、全体を通じて前進する気持ちを維持している。そして辻井は、気の遠くなるような複雑さと渦巻くようなエネルギーを持つ終楽章に、驚異的なコントロール力と圧倒的な正確さで立ち向かう。この楽章について辻井は「本当に驚かされた」と言う。 「このソナタは技術的にもとても難しいのですが、内容という観点からみても極めて複雑です」と辻井は続ける。「ピアニストにはスタミナも集中力も必要です。そして、リスナーの気を散らさないようにしなければなりません。演奏はリスナーの興味を引き、刺激的で、よくできたものでなければいけません。それはとても難しいことです。そして、この超人的な作品を書いたのは、聴力を失った作曲家であったことも忘れてはいけません。これがベートーヴェンにとっても大きな挑戦であり、自分自身との大きな闘いであったことは間違いないのです」 辻井がヴァン・クライバーンでこの力作を演奏してから今回のレコーディングを行うまでに15年の時が流れた。この年月によって、彼はこのソナタの中により深く入り込み、作品の核心にさらに近づいた。「録音の前には、かなり集中してこの作品に取り組みました。今回、自分の力でこの曲の扉を開けたと思っています。他のピアニストの解釈も研究しましたし、音楽仲間たちとも意見交換をしました。そのプロセス全体が、私に大きなインスピレーションを与えてくれました」
作曲者
ピアノ