トリスタンとイゾルデ
WWV90
職務に忠実な騎士と、望まぬ嫁ぎ先へと向かう花嫁を乗せた船が、漆黒の海を渡っていく。コーンウォールの騎士であるトリスタンは、彼の地の王であるマルケと結婚することになっているアイルランドの王女イゾルデをエスコートしているのだ。実はもともと深い因縁を持っていたトリスタンとイゾルデはこの後、絶望の淵に突き落とされながらも、名誉や社会通念、さらには人生そのものよりも重要な愛を見つけることになる。「私はこれまでの人生において、愛がもたらす真の幸福を享受したことがないのだから、隅々まで愛に満ちあふれた、この最も美しい、夢の記念碑を建立するのだ」と語ったリヒャルト・ワーグナーが作り上げたのが、アーサー王伝説に基づいた楽劇『Tristan und Isolde(トリスタンとイゾルデ)』だ。ワーグナーはこのオペラの制作の過程で、ショーペンハウアーの哲学を取り入れ、また、実質的に西洋音楽の音世界を再定義するに及んだ。言葉のない静かな問いかけと、それに答える謎めいたハーモニー(いわゆる“トリスタン和音”)で幕を開ける前奏曲の後、恋人たちは、3幕の壮大なスパンの中で、想像を絶する恍惚(こうこつ)と苦しみを体験する。そして、一音一音に込められた思慕の念は、別世界の輝きを放つラストの「Liebestod(愛の死)」で昇華されるのだ。非常に大きな影響力を備え、熱情と美しさをたたえ、止めどない愛が持つ破滅的なパワーについての深い(物騒な因子を含む)問いでもある『Tristan und Isolde』は、強烈な痛みを感じさせると同時に、とてつもない感動を与えてくれる作品であり、多くのリスナーの心をつかんで放さない。
