交響曲第5番 ニ短調
1936年、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの作品が、ソビエト連邦共産党の機関紙『プラウダ』によって激しく批判されたことは広く知られている。それ以降、ショスタコーヴィチは大いなる恐怖と孤独に苛まれることになるのだが、その苦難の時期を乗り越えて、彼の最も優れた、そして最も広く愛されてきた作品の一つである『交響曲第5番』(1937年)を生み出したのだ。ショスタコーヴィチは、相いれないと思われる二つのファクターを両立させる必要に迫られた。生き残るためには、ソ連当局が要求する、親しみやすく肯定的な音楽性を持つ交響曲を作曲しなければならないのだが、自身の誠実さを犠牲にすることには耐えられなかったからだ。当局の弾圧によって取り下げざるを得なくなった『交響曲第4番』に比して、『交響曲第5番』は、より親しみやすく、より叙情的で、さほど熱狂的ではなく、刺激の強い不協和音も控えめな作品となっている。燃えるようなファンファーレが力強く奏でられる長調のエンディングは、正しい政治的決断を下す力があれば、悲劇的な感情表現も許容できるはずだと、クレムリンのスポークスマンたちを説得するかのようでもある。この部分の解釈を巡っては、近年、議論の的となっている。これは、勝利の表現だったのだろうか。それとも痛烈な皮肉だったのだろうか。確かに、ショスタコーヴィチは皮肉と両義性を作品に忍ばせることを得意としていた。しかし、これほど偉大な業績を成し遂げたことに対して、少しも誇りを感じなかったということなどあり得るのだろうか。いずれにせよ当時のロシア人たちは、この作品の悲劇的な要素、とりわけ美しい緩徐楽章の中のそれに敏感に反応した。レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で行われた初演では、演奏後の喝采が30分も続き、指揮者のエフゲニー・ムラヴィンスキーがとどろくような拍手に応えて楽譜を高く掲げたという。
