エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト

バイオグラフィー

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、作曲家としてまれに見る早熟さを発揮した典型的な神童だった。1897年に、著名な音楽評論家だったユリウス・コルンゴルトの息子としてブリュン(現在のチェコのブルノ)に生まれたコルンゴルトは、9歳の時、自作のカンタータをピアノで弾いてマーラーに聴かせ、この大作曲家を驚愕(きょうがく)させる。11歳で作曲したバレエ音楽『Der Schneemann(雪だるま)』は、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)で初演されて大好評を博した。その後も10代にしていくつもの作品を成功させ、20歳になる少し前の1916年には『Der Ring des Polykrates(ポリュクラテスの指輪)』と『Violanta(ヴィオランタ)』という二本立てのオペラを発表して、新進オペラ作曲家として大きな注目を集める。そして1920年には、その人気ゆえ、ケルンとハンブルクでの同時初演という異例の形で披露されたオペラ『Die tote Stadt(死の都)』で、いよいよ国際的な名声を得るに至った。しかし、彼の音楽の真骨頂である豪華なロマンチシズムは、二つの世界大戦の間で不安定な時代を過ごしていたヨーロッパの雰囲気と次第に相いれないものとなっていく。さらにナチスが台頭する中で、ユダヤ系だったコルンゴルトの活動は妨害を受けるようになってしまう。そんな頃、ワーナー・ブラザースと契約した彼は、アメリカに亡命する。彼は12年間で16本ものハリウッド映画の音楽を書き、そのシンフォニックなサウンドと観客の心をつかむ音楽性は、映画音楽の未来に決定的な影響を与えた。第2次世界大戦後には一度ヨーロッパに戻るが、新しい音楽の風潮になじめなかった彼は、すでにアメリカ市民権を得ていたこともあり、再び大西洋を渡って、その後の人生を主にハリウッドで過ごした。1952年に書き上げた交響曲は冷遇されたが、1947年にヤッシャ・ハイフェッツの独奏で初演された『Violin Concerto in D major』はハイフェッツの尽力もあって協奏曲の重要なレパートリーとして次第に定着していった。現在ではコルンゴルトのオーケストラ作品やオペラの豊かな旋律は、より多くのリスナーに愛されるようになっている。

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