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- 1980 · フィルハーモニア管弦楽団、シャルル・デュトワ、パスカル・ロジェ、ロンドン・シンフォニエッタ
カミーユ・サン=サーンス
プレイリスト
バイオグラフィー
1835年にパリで生まれたカミーユ・サン=サーンスは、幅広い分野で並外れた才能を発揮した人物で、とりわけ音楽の天才だった。3歳で作曲をしたといわれ、10歳の時のデビューコンサートでベートーヴェンの『ピアノ協奏曲 第3番』を演奏し、13歳でパリ国立高等音楽院に入学した。1853年に初演した『交響曲 第1番』は偉大な先輩作曲家たちに驚きをもって迎えられ、教会でサン゠サーンスの演奏を聴いたリストは、若き彼を現役最高のオルガニストと評した。サン゠サーンスはその後、『Piano Concerto No. 2(ピアノ協奏曲 第2番)』 (1868年)や自ら最高傑作と語っていた『Symphony No. 3 “Organ Symphony”(交響曲 第3番「オルガン付き」』(1886年)などによって、トップレベルの作曲家、ピアニスト、オルガニストとしての地位を確固たるものとする。カミーユ・サン=サーンスはあらゆるジャンルに多くの名曲を書いた。しかしオペラに関して広く知られているのは、12作のうち『Samson et Dalila(サムソンとデリラ)』(1877年)だけである。彼のスコアはあらゆる面をコントロールするものである分、ともするとおおらかさに欠けるところがあり、歌手の表現が重要な要素となるオペラには不向きなのかもしれない。しかし、一幕もののオペラ『La princesse jaune(黄色い王女)』(1872年)や交響詩『Danse macabre(死の舞踏)』 (1874年)、そしてあからさまな風刺性からサン=サーンス自身が生前の出版を禁じた組曲『Le carnaval des animaux(動物の謝肉祭)』(1886年)など、軽やかなタッチの楽曲も多くある。北アフリカへの旅の中で書かれた『Piano Concerto No. 5 “Egyptian”(ピアノ協奏曲 第5番「エジプト風」』(1896年)はエキゾチックで表情豊かな作品だ。1921年、最晩年のオーボエソナタ、クラリネットソナタ、ファゴットソナタでは、古典的な落ち着きと老練な筆致の中で、卓越した作曲技術が輝いている。サン=サーンスが亡くなるとフランスは国葬を行い、偉大な作曲家の死を悼んだ。